東慶寺 〜駆け込み寺〜
宗派 | 臨済宗円覚寺派 |
山号・寺号 | 松岡山東慶総持禅寺(しょうこうざんとうけいそうじぜんじ) |
創建 |
弘安八年(1285年) |
開山(寺院を開創した僧侶) |
覚山志道尼(かくざんしどうに、北条時宗夫人) |
開基(寺院を創立すること、それをした僧) | 北条貞時 |
本尊(本堂に安置され最も尊重されている仏像) | 釈迦如来 |
住所 | 鎌倉市山ノ内1367 |
アクセス | 北鎌倉駅より徒歩3分 |
拝観時間 | 8時半〜16時(冬季)17時(夏季) |
拝観料 | 200円 |
鎌倉三十三観音霊場 第三十二番札所 聖観世音
鎌倉尼五山 第二位(他四寺は廃寺)
ご詠歌 たのもしや ちかひのみちは ときはにて そのしるしある 松の岡やま
駆け込み寺として有名な東慶寺ですね。 開山は、八代執権北条時宗の妻で覚山尼(かくざんに)、覚山尼の法号は、無学祖元より授けられたものだそうです。開基は、北条時宗と覚山尼の子の九代執権北条貞時。
後醍醐天皇の皇女五世用堂尼以来、高い格式を誇りました。
豊臣秀頼の娘、二十世天秀尼は徳川家康の孫娘千姫の養女でもあったので、江戸時代には徳川家の厚い庇護を受けたそうです。
封建時代は女性の側から離婚できなかった時代です。東慶寺に駆け込めば離縁できる女人救済の寺として、明治に至るまでの600年にわたり、「縁切りの寺法」を引き継いできたお寺です。明治4年(1871年)の廃仏毀釈により縁切りの寺法は廃止となり、尼寺の歴史も明治35年(1902)に幕を閉じました。現在は臨済宗円覚寺派の男僧寺です。
明治38年(1905年)に釈宗演禅師が入寺、中興開山となり、新たに禅寺としての歩みを始めました。明治の高僧と言われ、門下には居士、哲学者、政財界人が多く、抜群の英語力を活かし禅を「ZEN」として世界に広めた仏教学者の鈴木大拙もその一人です。
墓苑にはゆかりの数多くの哲学者、文学者、実業家たちが眠っています。のちに裏山に「松ヶ岡文庫」を設立し、世界的禅文化の発展の拠点ともなりました。
北鎌倉駅から鎌倉街道を鎌倉方面に数分、東慶寺入り口です。
入ってすぐ右手に、東慶寺ギャラリー&ショップがあります、入ったことないけど(笑)。


入り口脇には、こんな案内碑があります。


山門の階段手前にある夏目漱石参禅100年記念碑です。漱石は、円覚寺そして東慶寺に来ているんですね。
碑は、上が釈宗演禅師、下が漱石の文だそうです。



東慶寺山門です。駆け込んできた女人を守る!感じの急な石段ですね。

山門をくぐると、左手に田村俊子記念碑があり、奥に鐘楼があります。鐘楼の上部四箇所に動物の像が彫ってあります。






書院を見ながら右手に進むと、四賀光子の歌碑があります。四賀光子の墓は、夫の太田水穂とともに、この東慶寺の墓苑にあります。

右手には本堂があり、釈宗演禅師に見出された植村宗光和尚の宗光塔があります。

本堂には本尊である阿弥陀如来像が安置されています。

阿弥陀如来像の左は二十世天秀尼、右は開山覚山尼像と五世用堂尼像です。

本堂を出て右、金佛があります。

さらに進むと、松岡宝蔵があり、その前に君が代で知られるさざれ石があります。

松岡宝蔵内の木造聖観世音立像(写真撮影可・フラッシュNG)です。
心が洗われますね。



松ヶ岡文庫の碑、安宅弥吉翁碑を超え更に進みます。


右手に急な階段があります。
階段を登ると、第五世後醍醐天皇皇女用堂尼の墓、東慶寺開山北条時宗夫人覚山志道尼の墓などがあります。登ってみましょう。

後醍醐天皇皇女用堂尼の墓です。

開山である北条時宗夫人覚山志道尼の墓です。

こちらは二十世天秀尼の墓です。二十世天秀尼は大坂夏の陣で滅んだ豊臣秀頼の子です。

裏に「秀頼公之息女」とありますね。

階段を上った同じ敷地に(本来は左の石段から登ります)、歴代尼僧の墓、釈宗演禅師の墓などがあります。
奥が男僧3世の佐藤禪忠の墓、その右が男僧4世の井上禅定の墓、右二つは比較的新しい僧のもののようです。


こちらは釈宗演禅師の墓です。

階段を下り、右手に進むと墓苑が広がります。数多くの哲学者、文学者、実業家たちの墓があります。
一つ一つの墓には、特に案内があるわけでもないので、東慶寺のホームページの墓苑地図などを参考にしながら、お目当の方の墓を探すとよいでしょう、もちろん静かに眠っておられるので参拝する方も静かに。
右に下ると、石井・野田・松野家の墓が並びます。東慶寺の興隆に尽くした家柄なんだそうですよ。
まず、石井光雄の墓です。銀行家で日本勧業銀行総裁でした。松ケ岡文庫創設資金の援助をしたそうです。

実業家で政治家の野田卯太郎の墓です。

実業家、政治家の松野 鶴平の墓、野田 卯太郎の娘であるタキノと結婚して、頼三を生んだのだそうです。

こんなのもあるくらいだから、個人の墓というより、家族の墓なのかもしれません。

日本画家の前田青邨の墓です。

右に行きます。実業家、渡辺弥幸の墓です。

小説家・評論家の堀田善衛の墓です。

向陵塚(第一高等学校のOBが昔の寮生活を通じ、切磋琢磨した時代を懐かしんで昭和52年に建立した碑だそうです)を挟み、左の墓苑に参ります。 まず、小説家・編集者で菊地寛らと芥川賞・直木賞を創設、文芸春秋社の社長だった佐々木茂索の墓です。

歌人・国文学者の太田水穂の墓です。墓誌には、妻四賀光子の名前もあります。


貧者に無料の仁術を施した横浜の名医、田村与一の墓です。

小説家、高見順の墓です。手紙入れ(だそうです)の苔むした感じがなんともいい感じです。


英文学者・能楽研究者の野上豊一郎、小説家の野上弥栄子の墓です、多分。

哲学者、西田幾多郎の墓です。

哲学者、阿部能成の墓です。

岩波書店創立者、岩波茂雄の墓です。

出光興産創業者、出光佐三の墓です。

哲学者谷川徹三のお墓です。

安宅弥吉夫婦のお墓です。実業家で大阪商工会議所会頭、松ケ岡文庫建設費用を喜捨された方だそうです。

鈴木大拙夫婦の墓です。東慶寺+英語+禅とくれば大拙ですね。

哲学者、和辻哲郎の墓です。

歌人、西郷春女の墓です。


前田青邨筆塚です。

京城日報社長、国民新聞副社長だった阿部無仏居士の墓です。

海会塔共同墓所です、多分。

随筆家、画家、編集者、岩波書店会長の小林勇の墓です。

作家佐々木房の墓です、多分。

作家真杉静枝の墓です。

小説家、田村俊子の墓です。

哲学者・日本科学史研究家の三枝博音の墓です。

歌人、実業家の川田順の墓です。

化学者、鉱物研究家で人工繊維石綿のアスベストを開発した可児 弘一の墓です。


女性のための永代供養塔(共同墓)「桜塚」の碑です。

東京オリンピック金メダル、全日本バレーボール監督、大松博文の墓です。

第9回アステルダム五輪男子三段跳び金メダリストの織田幹雄のお墓です。

民法学者で金沢大学長だった中川善之助のお墓です。

作家赤瀬川原平の墓です。

文芸評論家、小林秀雄の墓です。分かりにくいところにあります。桜塚から入って整然と並ぶ墓ではなく、端にあるんですよね。

この地図は、鎌倉三十三観音のお寺をマークしています。